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純心無垢。あなたは、生まれてきたわが子を胸に抱いたとき、そう感じませんでしたか?
わが子誕生の日、私は大仕事を終えた妻のたたずまいを思い出し、また、産院に無理を言って抱かせてもらったわが子の、開いていた片目と眼が合ったことを思い出して、その夜一人湯船の中で大泣きしました。
「少年A」も、子どもがなかなかできないと心配していたご両親の元へ、親族も待ち望む中に生まれるという幸福なスタートを切りました。 しかし、その赤ちゃんは、わずか十四年の後、世を震撼させた殺人事件を引き起こします。
世間は、この猟奇的な事件を「少年A」の特殊性の問題に帰着させようとしました。 個人の特殊性の問題にしてしまうことで、自分はその問題と縁を切ることができるからです。自分が安心を得るための防衛本能と言ってもよいかもしれません。 では、赤ちゃんがそのような特殊性を持って生まれてきたのでしょうか?
また、酒鬼薔薇事件の後、私たちの社会は安心を取り戻すために、刑罰の強化に向かったり、学校教育に問題の根を求めたりということもしました。しかしながら、それらの対策が的を得ていないことは、この七年間の状況を見ても明らかです。 「二度とこういう被害者を出さないでほしい」 −そう叫び続けながら、最近の「小六女児殺害事件」にいたるまで加害者も被害者も現れ続けています。
その度になされる精神鑑定は、事件を個人の特殊性の問題にしてしまうための“お墨付き”のような気さえします。が、これらの事件は、それぞれが個々人の特殊性の問題に帰してしまえる事件なのでしょうか?
二〇〇四年一一月に立て続けに起こった「鉄アレイ両親殺害事件」や「両親・姉殺害事件」は、もはや個人のせいではすまされなくなってきていることを示しているのではないでしょうか。
私たちは、家族がおかしくなっていることに気づき始めています。
しかし、事件の度になされるテレビでの議論を見ても、家族の問題を捉える基本的な視座がないために有効な議論になりえずバラバラのままに終わってしまっています。
そして今年、数々の事件当事者の心の闇は解明されないまま、成人を過ぎた「少年A」は社会に復帰しました。
社会は不安の中に取り残されたままです。
その不安を象徴するかのようにミスターチルドレンの『タガタメ』という歌が登場しました。
『子どもらを被害者に、加害者にもせずに この街で暮らすためまずなにをすべきだろう?』
ついに、このような歌が生まれる社会状況の中に、今、私たちは生きているのです。 今やそれらの事件を生み出すカラクリを突き止めなければ私たちは安心を取り戻すことができません。
子どもを生むことができません。
この本は一筋の光をもたらすために書きました。
本書を読めば、少年Aは先天異常などではなく、両親との関係の中であの独特の世界観を構築したのだということがよく理解できるでしょう。
「子は親の鏡」という言葉の意味が真にわかると思います。 わが子の姿に親の姿が現れているのです。
子は身を挺して親や家族がどこかおかしいと訴えています。 その姿を通して親が自らの姿勢に気づくとき親自身が救われ、そして親が救われることによって子どもも救われるのです。
なぜ、親が先に救われなければいけないか。 それは、親の子に対する愛情よりも、子の親に対する愛情の方が深いからです。 子は親を無条件に愛し、そして無条件に赦します。 なぜならこの世の唯一の拠点―それが親だからです。
この本を読むことにより、わが子の発するSOSのサインにどのように気づけばよいのかがわかります。気づきは必ずよい変化をもたらします。
先ず、この本を読まれるあなたが自分を縛っているものから解放されてください。
また、本書を読めば、子育ては家族だけでも、まして母親だけでできるものではないこともわかるでしょう。人にとって自然や地域社会がいかに大切な価値を持っているのかが改めてわかると思います。
私の小さい頃は、家自体に地域社会と縁を作る機能が備わっていました。 「縁側」です。 人々は、裃を着けた玄関からではなく縁側を通じて自由に交流していました。 家は地域に向けて開放され風が通り抜けていました。
あなたの住む地域に、そして家庭に、風は吹きぬけているでしょうか? |
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